昨晩、興味をそそられる番組を目にした
 途中からの視聴だったが人間は面白いなと思った
 外国の偉い先生?なのか、教壇の上で東大生?に質問を投げかけていた
 戦犯を絡めた国民的道徳や善悪の問題を哲学的に建設的に講義をしていた

 人とはいつまで誤らないといけないのか
 
 先人の犯した罪は今この場に居る子孫もその罪を償わないといけないのか?

 大雑把にこの二つの課題が問題とされていた
 そこを個人的に掘り下げてみよう

 人はいつまで謝れば許されるのだろう
 相手が許すまで? 自分が満足するまで?
 それは謝るという行為がどういう行為なのか、そこがまず問題だろう
 謝るとは相手に対して「悪かったと自覚し許しを願う事」だそうだ
 これを前提に考えてみると「相手が許してくれるまで」が謝る事と取れる
 では「先人の犯した罪」に対してこれを当てはめるとどうなるだろう?
 戦犯であれば被害者となる人々はもうあまり生きていない
 その人間に対して国は賠償をしている
 ここでまず矛盾が発生してくる
 賠償をしなくてはならないのは被害者当人に対してだ
 遺族だろうが同国人だとしても当人ではない
 何が言いたいかというと「いくら謝罪しても当人ではない限り当人からは許しが貰えない」と言う所だ
 被害者というと当人以外も被害者になるだろう だが今言いたいのは当人ではないと言う事だ
 たとえば殺人は分かりやすい例に出来るだろう
 加害者は殺人 被害者は死亡 ここで被害者に家族等いたら家族も被害者に該当するだろう
 しかし死亡した被害者の気持ちを代弁する事は出来るかもしれないが、本当の気持ちや痛みは当人しか分かりえないのである
 被害者当人がいなければ周りの二次的な被害者は発生しない
 だから「当人」が重要だと考える
 にもかかわらず当人以外の人達が加害者当人ではなくその他の人達に賠償を求めるのは果たして筋が通った話なのだろうか?

 ここで過去に起きた事に対して親、兄弟はたまた同国人までその責任を取る必要があるのか? また可能なのか? を付け足してみよう

 「いくら謝罪しても当人ではない限り当人からは許しが貰えない」 
  
 謝罪はあくまでも当人からが原則だと考える
 でなければ当人以外の被害者が許してしまったら当人が許していないといっても謝罪は完結してしまうからだ

 ある東大生は「文化とは連続している物、時間は連動している物 
 したがって自分たちが有るのもその連続した時間軸に当てはまる
 ようは先人達がいるから自分たちもいる
 だから先人の犯した罪も連続し連動しているから賠償責任がある」
 と言う物だ
これには一点大きなキーワードがある 「時間軸」だ
 これをどう解釈するかで答えは大きく異なると容易に想像がつく
 これも議題として取り上げられていたがいったいどこまでを時間的連続体と捉えるかだ
 「俺の先祖が紀元前の時お前の先祖から暴行を受けたから賠償しろと」
 と言われても困る話だ
 どこからどこまでを連続した時間と解釈したらいいのだろうか?
 先祖をたどればアジア圏の大部分が兄弟となってしまうし、猿人まで行けば地球上の大部分は兄弟だ
 遡れば文化というものはまだ構築前でないと言っていいだろう
 そこまで遡れば時間軸の連続という定義は破状してしまう
 では日本だけではなく世界的にここからここまでと言う時間軸を定義する事は可能なのか?
 たぶん難しいだろう ここでは出来ない物として定義としては否定しておく

 ただ戦犯としてであれば事実として有った事として賠償は可能な気はする
 では今を生きている子孫や同国人に賠償責任が有るかと言われると上記の事を原則にした場合「否」になる
 間違ってはいけないのは加害者当人が行った行為に対して責任が有るのは加害者当人だけであるし、被害者当人から許しが出ない以上謝罪が完結出来ないからである
 では謝罪は必要無いのか? それは道徳的観点からは否であるし、否であってほしい 逆説的に考えてみれば当人からの許しを最終目標とした場合、目標に達しれない事に議論する事はまったく意味を成さない
 ここで持ち出すのは感情論や道徳しかない
 この類のものは筋が通らない物が多い なぜなら感情等は個々や文化で違うからである
 しかし感情で生きているのもまた事実だ・・・

 疲れたのでまた今度編集しようっと・・・
 
 

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